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オバマ米大統領が、授賞の小澤征爾さんらをホワイトハウスで祝福 「音楽通じて東西の橋渡しに生涯捧げた」-海外旅行自力旅 [海外情報・ニュース・世界情勢など]

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6日、米ホワイトハウスでのレセプションに出席した小澤征爾さん(ロイター)

オバマ米大統領夫妻は6日、ワシントンの文化施設ケネディ・センターが優れた芸術家に贈る同センター名誉賞を日本人で初めて受賞した指揮者、小澤征爾さん(80)をホワイトハウスに招き、「クラシック音楽を通じて東西の橋渡しをすることに生涯をささげてきた」と述べ、その功績をたたえた。








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出典:http://www.sankei.com/


 オバマ氏はまた、小澤さんが中学生の頃に母が禁止したラグビーで指を骨折し、ピアニストになる道を諦めたエピソードを紹介。「私たちにとっては幸運なことに、そのことが指揮者への扉を開けた。母に逆らうことが常にうまくいくわけではないが」と言って、会場をわかせた。

 小澤さんのほか映画「スター・ウォーズ」で知られる映画監督のジョージ・ルーカスさん、歌手のキャロル・キングさんらが同賞を受賞し、ホワイトハウスでの式典に招かれた。

小澤 征爾

小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年9月1日 - )は、日本人指揮者である。2002-2003年のシーズンから2009-2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。 栄典・表彰歴として文化勲章受章など。主な称号はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員など。

経歴
満洲国奉天市(中国瀋陽市)生まれ。父小澤開作は歯科医師、満州国協和会創設者の一人で、同志で満州事変の首謀者となった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した。1941年3月、父を満州に残したまま母や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園。1942年4月、立川国民学校(現・立川市立第一小学校)に入学。1945年、長兄の小澤克己(のち彫刻家になる)からアコーディオンとピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に対して本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価に譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄と次兄(小澤俊夫)とで3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

1947年、父が友人とミシン会社を始めた関係で神奈川県足柄上郡金田村(現・大井町)に転居。1948年4月、成城学園中学校に入学。当時、小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学していた[4]。中学ではラグビー部に所属する傍ら、豊増昇にピアノを習う。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの試合で大怪我をしたためピアノの道を断念。1950年秋、東京都世田谷区代田に転居。以後、東京都世田谷区経堂(1951年から1952年)、東京都渋谷区笹塚(1952年から1955年)、神奈川県川崎市幸区戸手町(1955年から1959年)で育つ。

1951年、成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学[6]。同門に秋山和慶、山本直純、羽仁協子、久山恵子がいる。

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当[13]。1957年12月には、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会におけるラヴェル『子供と魔法』にて、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめる[13]。1958年、フランス政府給費留学生の試験を受けたが不合格となる[7]。しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で渡欧資金を調達[14]。

1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏。このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤からは渡欧について猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドル(約45万円)の餞別を受けた。1959年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。ヨーロッパのオーケストラに多数客演。カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。1960年アメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨークフィルの来日公演に同行。カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始[16]するが、感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任(これはN響事件、小澤事件、N響小澤事件などと呼ばれる=後述)。このため日本では音楽活動をしないと決め、渡米した。その後、NHK交響楽団とは32年の歳月を経て1995年1月に共演を果たしている。

1964年シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡る。

1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任し1968年まで務める。1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し1976年まで務めた。

1972年には、フジサンケイグループによる突然の日本フィルハーモニー交響楽団の解散後、楽員による自主運営のオーケストラとして新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。小澤は指揮者として中心的な役割りを果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年9月から桂冠名誉指揮者となっている。1972年に日本芸術院賞を受賞している。

1973年、38歳のときに、アメリカ5大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督に就任。当初はドイツグラモフォンとの契約でラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けた。その後グスタフ・マーラーの交響曲全集(「大地の歌」を除く)など、フィリップスへの録音を行った。日本のクラシックファンにとっては、日本人指揮者の演奏をアメリカから逆輸入する形で聴くこととなり、また日本人指揮者の演奏が国際的に有名なレーベルから発売されるのは初めてであった。またボストンでの活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことであった。

タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して日本の電気メーカーNEC、ソニー元社長の大賀典雄などの援助により“SEIJI OZAWA HALL”が建設された。

なお、アメリカを本拠にしての音楽活動が長かったため、アメリカ国内及び海外のマスコミでは、小澤征爾を日系アメリカ人(Japanese-American)とするケースも見受けられる。

1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラとなる。1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功をおさめる。1992年からはサイトウ・キネン・オーケストラの音楽監督として活動を開始。このオーケストラでもフィリップスへの録音を多く行っており、今までにベートーヴェン、ブラームスの交響曲全集などを完成させている。

1998年に長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式では、小澤指揮によるベートーベン第九を演奏。開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結ぶ。

2002年1月、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは世界中に同時生中継された。2002年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めている。

作曲家の武満徹と親交が深く、音楽的・私的に深い友情を築いた。武満の死後も武満作品を演奏する機会が多い。小澤と武満との対談は『音楽(新潮文庫 1984年)』他、写真集でも発表されている。

2005年暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術を受けた。

2006年6月、スイス西部モントルー近郊ブロネで開催された「スイス国際音楽アカデミー」にて指揮活動を再開。また、7月20日には「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演にてマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮し、日本国内での指揮活動を再開した。2006年度のサイトウ・キネン・フェスティバル松本も指揮をし、2007年4月にはベルリンフィルを指揮をしている。

2010年11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された。


◆ ◆ ◆

小澤征爾さん(80)が凄い快挙です。アメリカで凄い栄誉です。日本の宝です!

しかし今回のアメリカのニュースを聞いて改めて小澤征爾さんの経歴を見てびっくり。
私の知っている小沢さんの経歴なんてせいぜいウィーン・フィルやベルリン・フィルで指揮を振っていことぐらいで、後は五大大陸同時中継ぐらいでした。あれは長野五輪での演奏だったのですね。覚えてなかったです^^;(笑)。

後はかつて在籍したNHK交響楽団(N響)との凄いトラブル。親戚の人がN響だったのでそれは知ってましたが、ここまで凄いとは驚きです。しかし、その後世界で成功するなんて強い心臓してらっしゃいます(笑)。人としては破天荒で一緒には居られないと思いますが、功績は世界でも素晴らしいの言葉では尽くせない程です。日本の誇りです。
ま、やはり世界で活躍する人とは何処でも同じなのですね。どこか自分を貫いてる。
場所では無いのです。どう自分を貫いて見せる事が出来るかですね。まさに「他者」ではなく、「自分が何をするか」なのだと、再確認です^^。

これに続け日本人!……ですね^^:

※先週から体調が悪く記事が多く上げられそにありません。すみません。


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小澤さんの80歳をお祝い ウィーンフィルが東京でサプライズ企画
出典:http://www.sankei.com/










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