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虚構捏造国家の嘘を暴け! 中国版「アンネの日記」こそが南京大虐殺がなかった証拠だ! 藤岡信勝(拓殖大客員教授)-海外旅行自力旅 [中国、韓国の「歴史捏造」「反日」及び「経済」関連]

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日本外交再度の大敗北

 中国が提出した「南京大虐殺」と「慰安婦=性奴隷」の二つの案件が注目される中、10月4日からアラブ首長国連邦の首都アブダビで開催されたユネスコ記憶遺産国際諮問委員会(IAC)は、「南京大虐殺」文書を登録する決定を行った。「慰安婦」については「不登録」となったが、ユネスコは2年後の次回、韓国などと連携して再提出するよう勧告した。いずれにせよ中国は、ユネスコを利用して、大きな対日歴史カードを手に入れたのである。







 この決定は、今年の日本外交の再度の大敗北である。再度の、と言うのは、明治期の産業革命遺産を世界文化遺産として登録するに当たり、6月に日韓外相会談で、朝鮮半島からの徴用工を「強制労働」させたと読める文書に合意するという失態があったからである。それに次ぐ第2の深刻な失敗を、戦後70年歴史戦の今年、外務省=日本政府は犯してしまったのである。

 14人からなる国際諮問委員会の審議の実態は、外務省の依頼でこの会議にオブザーバーとして参加した高橋史朗氏が別稿で報告されるので、ここではこれ以上ふれない。

 今回の登録の基本的な問題点を列挙すれば、次の通りである。

(1)中国の申請がそもそも「心の中に平和を築く」というユネスコ設立の趣旨に反する内容であること

(2)記憶遺産は人類的な価値のある文化遺産を保存するための制度であるのに、中国の申請はその趣旨に反する国際機関の政治利用であること

(3)申請資料の内容が公開されず、日本側に反論の機会が全く与えられなかったこと

(4)諮問委員は資料保存などの専門家ではあっても、歴史の専門家ではなく、歴史資料の評価を行う能力を欠いていること

(5)諮問委員会の決定は、申請国のロビー活動の結果で事実上決まること

(6)審議は公開されず、密室で決定されること

(7)ユネスコの事務局長がもともと中国寄りの立場の人物であること--

 これを見れば、殆どお話にならないデタラメと不正が行われていると疑われても仕方がない。

 右のうち、最後の(7)について補足しておく。現事務局長のイリーナ・ボコバ氏はブルガリアの出身の女性で、ブルガリア共産党の党員であった。フランス大使などの要職を経て、2009年からユネスコの事務局長に就任した。

 重大なことは、彼女が、西側諸国が揃って出席を拒否した中国の抗日戦勝記念行事に出席していたことである。9月3日には天安門で最新兵器のパレードを参観し、習近平とのツーショット写真におさまり、習近平夫人との対談までしている。

 この親中派のボコバ氏が、次期の国連事務総長を狙っていると言うから穏やかではない。東欧出身の、初めての女性事務総長として待望論があるのだという。もしそんな人事が実現すれば、国連は中国の道具に成り下がるだろう。

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出典:http://blog.goo.ne.jp


南京戦はあったが「南京虐殺」はなかった

 「慰安婦」が却下され、「南京」が登録されたことで、戦後70年歴史戦の今年残りのテーマの中心は、否が応でも「南京事件・南京大虐殺」ということになった。

 南京事件については、日本において1970年代以降の長い研究と論争の歴史がある。そもそも1970年代前半までの歴史教科書には「南京事件」は全く載っていなかった。

 朝日新聞の本多勝一記者が中国共産党中央委員会の招待で四十日間、中国共産党の用意した語り部をあてがわれて「取材」した記事が「中国の旅」として報道されたのが、全ての始まりである。

  1980年代は30万、20万など荒唐無稽な数字が乱舞する「大虐殺派」の天下であったが、ともかく事件があったのだということを広く認知させる役割を果 たしたのは、秦郁彦氏の『南京事件』(中公新書、1986年)だった。同書では4万人説が唱えられ、当時は30万人説などと比べて良識的な研究として読ま れたが、今では全く時代遅れの本となった。

 なぜなら、同書で公平な第3者としてあつかわれ、事件のイメージをつくるベースとなっている欧 米のジャーナリストが、その後の研究で国民党から金を受け取ってプロパガンダ本を書いたエージェントであったことがわかったからだ。秦氏が中公新書を絶版 としなかったので、同書は未だに影響力をもっている。しかし、研究は進歩するものであることを読者は知っていただきたい。秦氏は慰安婦問題では第一人者だ が、南京事件の概説書を書くのが早すぎたのかも知れない。

 1990年代の後半から、教科書問題とも関連して、虐殺の存在を前提として仮定 しない研究潮流が生まれた。2000年から12年間、日本「南京」学会が旺盛な研究活動を展開し、南京事件が戦時プロパガンダとして仕組まれたものであ り、事件そのものが存在しなかったことを立証した。

 なお、歴史学界はこれを認めていないという説があるが、近現代史は歴史評価の上で、専 門家とシロウトの間の能力的落差はほとんど認められない分野である。歴史の専門学会に所属するギルド集団に歴史解釈についてご判断を仰ぐことにあまり意味 がないのである。これは、憲法学界が現行憲法を擁護する憲法御用学者の集団であり、彼等のイデオロギーに楯をつく弟子は就職すらできないのだから、憲法学 界に安全保障問題の判断についてお伺いを立てるのが筋違いなのとやや似たことだといえる。

 現在、南京事件に関する日本政府の公式見解は、「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できないが、被害者の具体的人数は諸説あり、正 しい数を認定することは困難」(外務省ホームページ)というものだ。今回、中国は資料の一つとして南京軍事法廷の判決を入れている。この中に「30万人」 と書かれているので、それに反論するという筋立ては成り立つとは言え、南京事件の存在自体は認めるという立場に立つ限り、反論の足場が弱くなることは否定 できない。なぜなら、小規模といえども、事件があったとすれば、それに関する資料を提出することは形式的には正当化されるからである。従って、公式見解 を、少なくとも「事件の存在自体を否定する説も含めて諸説ある」というふうに変えていただきたいと思う。

 ここで、私は日本の政治・外交を担っているトップエリートの皆様に是非お願いしたいことがある。東中野修道・亜細亜大教授の『「南京虐殺」の徹底検証』(1998年、展転社)以後の「事件否定派」の研究を真面目に読んでいただきたいと念願する。

  過去15年間の南京研究の成果を要約するのは簡単ではない。もし、その結論をひとことで表すとすれば「南京戦はあったが、『南京虐殺』はなかった」という ものである。この命題は非常によく出来ていて、私が監修したパンフレットのタイトルにもなっているのだが、この命題に南京事件に関わるすべての論点を解明 するカギがあるといえる。

 この命題のもとでは、南京事件に関わるどんな話題でも、「それは南京戦に属するテーマなのか、それとも南京虐殺に属するテーマなのか」を判別することが求められる。「虐殺」とは武器をもたない非戦闘員を、根拠なしに武器を帯びた兵士が殺害することである。

  例えば、日本テレビで10月4日の深夜に放映され、10月11日に再放送された「南京事件-兵士達の遺言」は、城外の戦闘をテーマにしたものであって、市 民の「虐殺」とは別の話なのに、これを混同して描いていた。虐殺の存在を肯定する立場の人々は、両者の分割線を絶えず曖昧にする。


「中国版・アンネの日記」の狙い

 新華社通信は、登録決定のあと、世界記憶遺産に登録された「南京大虐殺に関する資料」を次の11項目であると公表した。(毎日新聞10月11日付)

(1)国際安全区の金陵女子文理学院の宿舎管理員、程瑞芳の日記

(2)米国人のジョン・マギー牧師の16ミリ撮影機とそのオリジナルフィルム

(3)南京市民の羅瑾が死の危険を冒して保存した、旧日本軍撮影の民間人虐殺や女性へのいたずら、強姦の写真16枚

(4)中国人、呉旋が南京臨時(政府)参議院宛てに送った旧日本軍の暴行写真

(5)南京軍事法廷が日本軍の戦犯・谷寿夫に下した判決文の正本

(6)南京軍事法廷での米国人、ベイツの証言

(7)南京大虐殺の生存者、陸李秀英の証言

(8)南京市臨時(政府)参議院の南京大虐殺案件における敵の犯罪行為調査委員会の調査表

(9)南京軍事法廷が調査した犯罪の証拠

(10)南京大虐殺の案件に対する市民の上申書

(11)外国人日記「南京占領-目撃者の記述」

 新華社電による11項目のうち、真っ先に上がっているのは「国際安全区の金陵女子文理学院の宿舎管理員、程瑞芳の日記」である。そこで本稿では、とりあえずこの資料を検討することとする。

 程瑞芳などという人名を知っている日本人はほとんどいないが、それもそのはず。この資料が発見されたのは21世紀に入ってからで、著者が程瑞芳という女性の舎監であることを割り出したのは中国共産党である。

 どうしてこの資料が最初に挙げられるのかという事情を探ってみると面白いことがわかる。

  第1に、そもそも中国がユネスコの記憶遺産を政治利用できることに気付いたのは、2009年にオランダが申請した「アンネの日記」が登録されたことがヒン トになったといわれている。「その手があったか」ということで、「南京」を日本叩きの外交カードにするために、中国はこの制度の利用を思いついたのである。

 第2に、女性の日記であるという共通性を利用し、「中国版・アンネの日記」として打ち出せば世界的に宣伝するのに都合がいいと考えた のだろう。一種の「コバンザメ商法」で、「アンネの日記」の知名度に乗っかって「程瑞芳の日記」を世界的に有名にしようと狙ったと思われる。ただし、アン ネ・フランクがうら若い女性であったのに対し、「東洋のアンネ」はすでに孫のいる女だった。

 第3に、中国人自身による事件の記録であるということがこの資料を大きく扱う要因になっていると考えられる。従来、南京事件のまとまった文書とい えば、中国人以外の外国人が書いたものばかりだった。そうした中で、この資料について、『戦場の街南京-松村伍長の手紙と程瑞芳日記』(2009年、社会 評論社)の著者・松岡環氏は、「中国人が、南京大虐殺をその当時、その場で記録した文章はおそらく程瑞芳日記をおいてはないといえるでしょう」と述べてい る。

 以上のことから、程瑞芳日記が、記憶遺産の資料のトップにあげられることになったと推測できる。







日記は「南京大虐殺」不在の証明

 ところが、程瑞芳日記の内容を読んでみると、誠に拍子抜けするだけで、この文書のどこにも「大虐殺」など書かれていないのである。全くの噴飯物と言わざるを得ない。

  この日記をめぐる前後の状況をまずのべておきたい。南京の通常の人口は100万人だが、日本軍との戦闘が近づいてくると、多くの市民が財産をあるったけ持 ち出して、近郊に疎開した。彼等はなぜ逃げ出したかというと、中国軍が来るのが恐ろしかったからである。日本軍がくれば市内の秩序が回復することを市民は 期待し、歓迎していた。

 地方に疎開することができず、南京に取り残された極貧層の20万人の市民は、防衛司令官の命令で市の中心部に設定された安全区に収容された。その安全区の中に金陵女子文理学院(金陵女子大学から名称変更)があった。

 そこで、金陵女子文理学院が避難民の収容所の役割を果たすことになった。同学院の建物に4000~5000人の婦女子を収容したが、やがて男性も収容し、人数は9000人にふくれあがった。入れない市民は路上で寝起きした。衛生状態も治安も極めて悪かった。

  加えて、安全区には1万人以上の敗残兵が、武器を持って潜伏していた。後に摘発された武器弾薬は、トラック50台分に及んだ。彼等は軍服を脱ぎ捨て、民間 人の服装をして、便衣兵となっていた。こうした行動は戦時国際法違反であり、民間人に潜り込んだ敵兵を摘出して掃討することは戦闘の一環で合法的な行為 だった。

 日本軍は12月14、15、16の3日間、掃討戦を展開した。

 程瑞芳日記は、1937年12月8日から1938年3月1日までの84日間の記録で、筆者が金陵女子文理学院の教師として難民受け入れにいかに苦労したかが書かれている。しかし、この日記の真の目的は、日本軍の悪行を記録しておこうとするところにあった。

 程瑞芳は、実は東京裁判に供述書を提出し、11人の娘が連れ去られ強姦されたこと、1人の男が部屋に入って強姦したこと、1軒の家が焼かれ主人が殺されたこと、の3件を証言していた。

  日記ではさらに多数の不法行為が日本軍の仕業であるかのようにして書かれている。しかし、よく読むと、多くの事例はまことに漠然とした記述であり、その雰 囲気は国民党政府がまとめた「南京安全地帯の記録」ととてもよく似ている。それは、どちらも伝聞による記述が多数にのぼるからである。

 南 京事件研究家の阿羅健一氏は、程瑞芳日記を詳細に検討し、幸福実現党が4月8日に提出した反論書の一部として批判文を執筆した。ユネスコに提出したのは英 訳だが、日本語の原文は、9月7日に行われた「南京の真実国民運動」と「慰安婦の真実国民運動」の合同記者会見の場で、「程瑞芳日記について」と題する A44ページの文書として配布した。以下、この文書に依拠して記述する。

 阿羅氏は、程瑞芳日記の記述を、(1)漠然とした記述(2)噂話(3)虚偽(4)程瑞芳自身が見た被害-の4つに分類した。

 このうち「漠然とした記述」というのは、例えば「城の南側の多くの建物が焼かれた。毎晩焼かれている」だとか、「外では毎日略奪が発生している。あらゆる物が盗られる」などといった記述である。具体性がない。

 「噂話」というのは、「全南京市で今のところ憲兵が17人しかいない」といった記述である。憲兵が少ないから軍紀が乱れたと言いたいらしいが、事実は200人の憲兵がいた。人から聞いた噂話を書いたのであろう。

 「虚偽」というのは「ある場所では死体で路面が見えなくなっている」といった記述である。東京裁判で検察側が提出した記録によれば、安全区内にあった死体は175体であった。路面が見えなくなるどころか、死体を見つけるのが大変である。

 かくて「程瑞芳自身が見た被害」をまとめると、強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件、となる。東京裁判に提出した供述書の被害よりも強姦件数が減っていることに注目していただきたい。

  仮に、強姦8件以下の被害が確かに程瑞芳の目撃した被害だとしても、つまり、彼女がこの点で嘘を書いていないと仮定しても、この資料の結論は全く奇妙なこ とになる。ここには殺人の記録が皆無だからである。前記・松岡氏の言う通り、これが、「中国人が、南京大虐殺をその当時、その場で記録した文章」だとすれ ば、この資料からは「『南京大虐殺』では殺人はなかった」という結論になる。これは矛盾した、無意味な命題であるから、結局は「南京大虐殺はなかった」と いう命題に書きかえられる。

 驚くべきことに、中国が最も重視して、腕によりをかけて提出した第一級の資料が、何と、「南京大虐殺はなかった」という主張を裏付ける資料に反転してしまったのである。


多数の非行は敗残中国兵の所業

 それだけではない。これらの不法行為はそもそも日本人がやったのかどうかに疑問がある。というのは、1938年1月4日付けのニューヨークタイムスに次のような記事が掲載されているからである。

「中国軍の大佐と6人の将校が金陵女子大学に隠れ、略奪したり、少女を強姦して日本兵がやったように見せかけていた。大佐は宣教師によって、難民収容所を管理する2番目の地位に就けられていた」

 程瑞芳が、この捏造とスリカエを知りながら、日本人になすりつけている可能性も否定できない。南京の日本軍は、掃討や警備などのため宿営所を出る時は、中隊、小隊、分隊といった単位ごとに同一の行動をとった。夜間外出は禁止されていた。脱走すれば厳罰に処せられる。

  さらに重要なことは、南京陥落直後から市内は全面停電となり、クリスマスころまで復旧しなかったことである。禁を犯して外出し、地理も分からない真っ暗闇 の敵国の首都を、敵の敗残兵が武器をもって身を潜めているなか、女性をとらえて強姦するという行為に及んだ日本兵は何人いただろうか。殆ど考えられない。 ところが、「南京安全地帯の記録」では、強姦事件の半数は夜間に起こっているのである。これは敗残中国兵の仕業であることが明白だ。

 12月20日の程瑞芳日記には、次の記述がある。

「今日もたくさんの難民が来た。二百号(文学館)の3階までぎっしり埋まっている。おそらく憲兵が保護していると思って避難して来たと思うが、憲兵も女の子を庭に引きずり出して強姦する。彼等は人間じゃない。場所を問わないでやる。畜生だ」

 この「畜生」は、はたして何国人なのだろうか。ちなみに、程瑞芳と行動を共にしていた女学院の責任者ミニー・ヴォートリンの同日付の日記(『南京事件の日々』1999年、大月書店 69-70頁)には、右のような記述はない。

 中国の提出した・以下の資料についても、同様のことが必ず指摘できるはずだ。その意味では、資料の公表は論争にとって好都合である。日本は今こそ歴史戦に本気で取り組まねばならない。


■ ■ ■


ユネスコの世界記憶遺産に登録が決まった「南京事件」。
これは恐らく政治的な取引で申請が決まったのは間違いないでしょう。それを決めたのは『【イリナ・ボコバ ユネスコ事務局長関連】南京大虐殺の「世界記憶遺産」登録を認めたユネスコ事務局長の野望』でも書いていますが国連初の女性事務総長になろうという野心から中国と取引してる人間。

このままではダメです。

戦力を持って、ユネスコの誤った登録を1つ1つ潰して不正を暴くのと引き換えに登録を取り消しましょう。

だれでも自分の悪事をばらされるのは嫌でしょうから。ガンバレ、日本!



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出典:http://www.sankei.com/
犠牲者30万人という数を記した南京大虐殺記念館の壁←この内容自体が、30万人も居なかった土地の出来事なのに虚偽なのですが。











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