SSブログ

海外旅行、自力旅情報。『過去の罪の償いか同情なのか?』 ドイツ人が難民を支援するその理由とは。 [海外情報・ニュース・世界情勢など]

img_18e1292120f6a04be77f145c1f19593d207197.jpg
出典:http://www.afpbb.com/


ドイツの年金生活者であるフランク・デイトリヒさんはこの4週間、午前8時から午後7時までベルリンの難民登録センターに並ぶ人たちに飲み水を渡しているとの事。

彼が言うには「家でテレビの前に座っているよりもずっと有意義な時間の使い方だよ」と語ったそうである。

「登録希望者が多すぎて政府には絶対に対応しきれない。だから手伝わないとね」彼はあっさりとした口調で語ったそうである。









IS.png
出典:http://www.afpbb.com/

今年ドイツが難民申請者80万人の受け入れを準備している中で、デイトリヒさんのような大勢の市民が第二次世界大戦(World War Ⅱ)あと最大規模の難民支援に自発的に参加している。

難民の一時収容施設の隣に自宅兼スタジオを構えるアーティストのアンデレル・カマーマイアーさんは、「毎週末、あるいは毎晩、難民のための物資を積んだ車が次々にやってくるのが見える」と語ったそうだ。
「われわれの歴史、ドイツの記憶と関係していることなのだろう。ほぼ全てのドイツ人は、かつて難民あるいは移民だった家族を持っている」


ノーベル文学賞の作家のヘルタ・ミュラー氏は「私も難民だった」と題した独大衆紙の論説で、ナチス・ドイツの統治下で数十万人規模のドイツ人が逃れた事や、その後に大勢のドイツ人が東欧や東ドイツの共産圏を逃れた事を振り返り、「ナチスを逃れて亡命した人々はみな助かった。……過去に他の国がドイツ人にしてくれた事を、ドイツもしなければならない」と述べたそうである。

歴史家のアルヌルフ・バーリング氏は「我々が今行っている善行はなんである、過去にわれわれが犯した悪行、とりわけナチス時代のそれとつながりがある」と語る。
反移民の論調が出るたびにソーシャルメディアで激しい反論が巻き起こるそうです。

ドイツDPA通信の委託で英世論調査会社YouGovが実施した調査によると、難民支援を手伝った人は、すでにドイツ人の5人に1人に上っている。
カマーマイアーさんによると、難民の一時収容施設に寄付した多くは、最近ドイツに移住した人や、家族に移民だった人だと言う。

難民の一時収容施設では、2人の難民を連れた若い男性が2人に受け入れを許可して欲しいと施設責任者を熱心に説得していた。
独名を条件に取材に応じたこの若者は、自分はボランティアで難民たちの通訳をしている言い、「私はドイツ生まれだが、両親はイラン出身だ」と語ったという。

若者は「手伝わなければならないと感じたんだ」と述べ、毎日仕事帰りに一時収容施設を訪れ「通訳でも車両の運転手でも必要な事はなんでもしている」と語ったという。

理由について尋ねると「ただ人間的であろうと言うだけさ」と当たり前のように応えたそうである。


img_4d1b503571ab46d57b33ac20dc83c032161946.jpg
出典:http://www.afpbb.com/
ドイツ南部ミュンヘンにある難民への寄付品を集めた施設を訪れたシリア難民の家族の模様。


img_1e6b9ca2cd46b64d6f0b140ea55bbdde139916.jpg
出典:http://www.afpbb.com/
ドイツ北部ツェレに到着し、貰ったゲームで遊ぶ難民の少女。

無償のこの行動には本当に胸に来るものがあります。



この記事を目にして先ず感じたことは、今の日本人の私たちにこの彼らのような行動が直ぐ取れるか自信を持って応えられなかった事です。

かく言う私が「当たり前の事」だと思い、すぐ行動に移す事が出来るのか?


ドイツの人々の中にある、「第二次世界大戦におけるナチス時代の悪行に繋がっている」と応える気持が、今の私たちにあるのかと考えてみたのである。

私たち日本人はそれほどその時代に日本がやった事を正しく理解してるのかとも考える事になりました。

私たちがした悪行があったろうかと考える。ドイツの彼らが語った侵略のような事は無かったと理解しています。

行った事は大陸で行われた日本人を救いに行った行動に起因するでっち上げの濡れ衣だとは少なからず知っている。しかし、その事すら日本人は正しく理解していないのではないでは無いだろうか?

自分達の犯した第二次世界大戦に突入したその過ちは理解しています。本当にばかげた決断だったと考えれば考えるだけ悔やまれてしまいます。

あのようなばかげた判断をしなければ、正しい日本の理解が今もされていたでしょうと思うと悲しくなります。


しかしそれは必ずしも今日本人が隣国大国などが上げ連なる理由などではないと言う事を正しく知る必要があると思います。

正しく自分達の起こした過ちなどもっと日本人は歴史を学ぶ必要が有ると、沢山の世界での事を調べる途上で思うことがあるります。

私たち日本人はもっと歴史の事柄を正しく真剣に考える必要性を感じます。
もっと、日本教育でばかげた軍国主義などに頼らず、きちんと日本人らしい、潔い、正しい行いを数々行って来た事を学ぶべきであります。

かつてのトルコ人の船舶を助けた出来事『エルトゥールル号遭難事故』( エルトゥールル号遭難事件とは、1890年9月16日に起きた大規模な海難事故である)や、かの第二次世界大戦時のユダヤ人の亡命の為に国の命令にそむいてまでその任期が切れる出発の日の朝までビザの書類に通行を認めるサインを書き続けた日本人『杉原千畝』さんのようにな日本人で、その正しい考え方をする国の人間だという誇りを持って生きて欲しいと思うばかりです。



正しい教育は本当に必要だと思うばかりです。

海外の人々はその日本の潔い、高潔で、その他を尊ぶ相手を尊重する素晴らしい国の人間との認識をもっと正しく理解したほうが良いです。

トルコの国民の人々の日本人への親日ぶりはきっとTVや現地に行った人の記事を見るたびに感じます。その理由は、かのエルトゥールル号事件などでの彼らの命を無償で救おうとしたその時の日本人への感謝に起因するところも大きいとらしいのです。

それ以前の日本との友好関係にも拠るところが大きいらしいのですが、そのかなり昔にした出来事を何故今現在のトルコの人々が私たち日本人を見てとても親切にしてくれると言う事を考えたほうが良いと思います。

それはトルコの教科書で日本人がかつてかれらを救った事を授業で習って、日本人は良い人々だと知ってると言ってくれるのです。

カナダに現在いる娘にも言われるのですが、トルコの人たちは日本人にとても親切にしてくれると言うのです。

海外で会った時もそうですが、日本にいるトルコの人も親切ですしね^^;。

正しい教育は本当に大切だと思います。

もっと日本人も、ドイツの人々のように昔の日本人のように無償で人々を助ける事を躊躇無く出来るようにして行きたいと思いますね。

かつての日本人はやはり誇れる国民だと思えて嬉しいので、これからの日本も頑張って行かないといけないとよく思う今日この頃です。

これからももっと現代の日本も誇りを持っていけるように頑張りましょう。私も含めて(笑)。

がんばりましょう^^。未来は私たちの中にあるのだから^^。




wikipediaより。

300px-Kushimoto-toruko-ireihi1.jpg
出典:ja.wikipedia.org
エルトゥールル号殉難将士慰霊碑(和歌山県串本町)


300px-ErtugrulFirkateyn.png
出典:ja.wikipedia.org
写真はオスマン帝国海軍「エルトゥールル」


エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件。
現在、和歌山県串本町とトルコのヤカケント町、メルスィン市は姉妹都市である。樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。

(中略)

救難活動
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当てを行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知ったod 345_R.JPG。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。付近を航行中だった船に、大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡の為神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された[1]。沖村長は県を通じて大日本帝国政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金・弔慰金も寄せられた。








wikipediaより。

200px-Sugihara_b.jpg
杉原 千畝(すぎはら ちうね)
出典:ja.wikipedia.org




杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。

(中略)

『命のビザ』
杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」[脚注 20]という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」[43]だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」[45]という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。
日本では神戸などの市当局が困っているのでこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日[脚注 21]に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、杉原はビザ発給の理由を説明している。  ~~











Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。