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<戦後70年の真実>火葬場から盗み出された7人の遺灰は… 広田弘毅は無理な罪状にも「自ら計らわず」-海外旅行自力旅 [海外情報・ニュース・世界情勢など]

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東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=東京・市谷
出典:http://www.sankei.com/


 昭和23年12月26日未明、横浜市西区の久保山火葬場(現久保山斎場)の共同骨捨場に、黒いマントに身を包んだ男3人が闇にまぎれて忍び込んだ。3人は先端に空き缶を付けた竹ざおをコンクリート床の穴に入れ、中にたまった骨灰を慎重にすくい上げた。寒さと緊張で手の震えが止まらない。なんとか一握りほどの骨灰と細かな骨を集め、骨壺に収めると、男たちは無言でうなずき合い、その場を立ち去った。






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ウェッブ裁判長から死刑宣告を受けた東條英機。「わかっておる」と言わんばかりに深くうなずき、ヘッドホンを外して退廷した=昭和23年11月12日
出典:http://www.sankei.com/

 骨壺は近くの寺で厳重に保管された後、翌24年5月3日に伊豆山(静岡県熱海市)中腹の寺院「礼拝山興亜観音」に持ち込まれた。

 遺灰は、東京裁判(極東国際軍事裁判)で死刑を宣告され、A級戦犯として絞首刑となった元首相、東條英機(陸軍大将)ら7人のものだった。

 7人の刑は、戦犯収容所の東京・巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の一角で23年12月23日午前0時すぎ、ひっそりと執行された。この日は明仁皇太子(天皇陛下)満15歳の誕生日だった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は刑執行後、久保山火葬場に遺体を運び込み、厳重警戒の中で焼却した。遺族は遺灰の引き取りを願ったが、GHQはにべもなく断った。神聖化され、軍国主義復活に利用されることを恐れたのだ。遺骨は米兵によって鉄の棒で粉々に砕かれ、東京湾に捨てられたとされる。

 遺族たちの無念を聞き、東京裁判で元首相の小磯国昭の代理人を務めた弁護士の三文字正平が奮い立った。久保山火葬場で火葬されるという情報を得ると、旧知の住職とともに火葬場長に遺灰奪回計画を持ちかけた。

 火葬場長は、米兵がわずかな骨片や遺灰は掃き集めてコンクリ穴に捨てたのを見逃さなかった。クリスマスの夜ならば警備も手薄になるに違いない。こうして3人は首尾よく遺灰を取り戻したのだった。

  最終的に遺灰を持ち込んだ興亜観音は、東京裁判で南京事件の責任を問われ処刑された元中支那方面軍司令官、松井石根(陸軍大将)が日中戦没将兵の慰霊に建 立した寺だった。松井は巣鴨への出頭直前に密かに興亜観音を訪ね、「どうか英霊の供養を頼む」と住職の伊丹忍礼の手を握った。

  それだけに興亜観音は絶好の安置場所だったが、油断はできない。三文字は骨壺を持ち込んだ際、「これはお知り合いのご遺灰です。時機が来るまで誰にも分か らぬよう秘蔵していただきたい」と頭を下げた。誰の遺灰かピンときた伊丹は快諾し、本堂の床下や礼拝堂など隠し場所を頻繁に変えて遺灰を守り続けた。作業 は真夜中に行い、家族にも秘密だった。伊丹の三女で現住職の妙浄(63)はこう打ち明けた。

 「父はご遺灰については何も語りませんでしたが、『兵隊さんのご苦労を思えば何の苦労もない。ご英霊のご丹精があったからこそ今日の日本がある』というのが口癖でした。英霊はA級もB級もなく供養するのが当たり前だと考えていたのでしょう」

× × ×

 A級戦犯として処刑された7人の中で元首相、広田弘毅は外交官出身で唯一の文官だった。

 23年11月12日の死刑宣告から2週間余り経った11月29日、広田の家族は最後の別れを告げに巣鴨プリズンを訪ねた。

  10歳だった孫の弘太郎(77)は面会室の一角でガラス越しに祖父と向き合った。物心ついて祖父に会うのは初めて。面会前に父、弘雄に「お前がおじいさん に会えるのは今日が最後だ。なるべく覚えておくように」と言われたので必死に目を凝らしていると、広田は優しくほほ笑みながらこう言った。

 「ちゃんと勉強して、しっかり暮らしなさい」

 緊張のあまり顔はうろ覚えだが、広田の落ち着き払った物腰は覚えている。他の家族にも、判決への不満や、遺言めいた言葉は一切なく「これからの世の中は外国語の勉強はしておいた方がいいな」などと何気ない団欒を続けた。

 広田は一体何の罪に問われたのか。

  主席検事、ジョセフ・キーナン率いる検事団は、侵略戦争を計画・実行した「平和に対する罪」▽捕虜殺害・虐待など「通常の戦争犯罪」▽一般住民への非人道 的行為など「人道に対する罪」-の3つの罪状で28人を起訴した。対象は3(1928)年1月1日から20(1945)年9月2日まで。適用された訴因全 55項目のうち広田の訴因は48項目に及んだ。

 検事団は、首相の田中義一が3年に昭和天皇に上奏したとされる「田中上奏文」を、ナチス・ドイツを率いたヒトラーが著した「わが闘争」と同様の文書と位置づけ、歴代内閣と軍部が17年8カ月にわたり侵略戦争を計画・遂行した-という筋書きを描いた。







 実態は全く違う。この時期は短命政権が続き、政策に一貫性はない。満州事変や盧溝橋事件なども関連性が薄かった。無理な筋書きはすぐに破綻し、検事団は早晩行き詰まった。しかも証人尋問を通じて検事団が証拠提出した田中上奏文が偽物だと判明した。

  窮した検事団が飛びついたのが、広田内閣が11年8月に策定した「国策の基準」だった。仮想敵国の想定に基づき陸海軍の南北並進を記した文書を「侵略戦争 への計画書」と見立てたのだ。仮想敵国対策が戦争計画であるはずはなく、広田も「軍部の予算獲得のための方便」としか認識していなかったが、検事団は広田 を「軍部の積極的な追随者」と位置づけた。

 広田が外相時代の12年12月に起きた南京事件への対応も「現地から報告を受けながら陸相に抗議しただけで閣議報告せず、適切な対策を怠った」と責任を問われた。

  軍の作戦が閣議案件になるはずはなく、最年少で起訴された元軍務局長、佐藤賢了(陸軍中将、終身刑)は「外相は陸相に警告する以外にすべがなかったことを 証言すべきだ」と促したが、「自ら計らわず」を信条とする広田は一切弁明しなかった。広田については判事団の見解も分かれ、多数決の結果、6対5で死刑判 決が決まった。

 背景には、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが「戦争犯罪は日本政府全体で遂行したもので軍部だけの責任ではな い」と文官の処罰を求めたことがある。ところが、文官ながら広田よりよほど戦争に関与していた元首相の近衛文麿はA級戦犯リストに入れられた直後に服毒自 殺した。元外相の松岡洋右も公判中に病死してしまった。代わりに広田がターゲットになったと言ってもよい。

 それでも広田は判決に愚痴一つこぼさず「雷に当たったようなものだ」と達観していた。
 心の支えは家族だった。妻、静子は「パパを楽にしてあげる方法が一つあるわ」と言って自ら命を絶ったが、娘たちは欠かさず法廷に通い、被告席の広田と視線を交わした。

 「デス・バイ・ハンギング」。裁判長のウィリアム・ウェッブの死刑宣告で法廷がどよめく中でも、広田は娘たちにほほ笑みかけることを忘れなかった。

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出典:http://www.sankei.com/

   × × ×

 7人の処刑から5年目の命日となる28年12月23日。見知らぬ外国人が興亜観音に姿を現した。東京裁判でインド代表として判事を務めたラダ・ビノード・パールだった。山麓に住む松井の妻を訪ねた後、山道を登り、7人の菩提を弔いに来たのだった。

  パールは裁判で被告人全員の無罪を主張した。法廷に提出した1200ページ超の意見書では、勝者が敗者を裁くこと自体を批判。「日本は計画に基づき侵略戦 争を始めたのではなく、むしろ西洋に挑発された」「一般市民への生命財産の侵害が戦争犯罪ならば、原爆投下こそが裁かれねばならない」などと主張した。

 興亜観音の境内には34年4月、松井の友人らが「殉国七士之碑」を建立した。揮毫したのは広田と外務省同期入省の元首相、吉田茂だった。

 満州事変の責任を問われ、処刑された元第7方面軍司令官、板垣征四郎(陸軍大将)の次男で元参院議員の正(91)はこう語った。

 「東京裁判はGHQの占領政策の一環であり、裁判に値しない。だが、心ある日本人がGHQに屈しなかったからこそ7人の遺灰が今に至るまで大切にされた。ありがたいことです」

× × ×

 興亜観音をめぐってはこんな不思議な話もある。

 26年5月、1人の米将校が興亜観音を訪れた。7人の死刑執行の責任者だった米軍中将、ヘンリー・ウォーカーの副官だった。

 ウォーカーは朝鮮戦争の米軍司令官として朝鮮半島に派遣されたが、自らジープを運転中に同僚に追突され、崖から転落死した。

 事故があったのは、25年12月23日未明。7人の命日だった。「7人の呪いではないか」。韓国人将校にこう言われた副官は興亜観音に7人の遺灰があることをどこからか聞きつけ、悪霊払いに訪れたのだった。

 住職の伊丹忍礼は「怨親平等が松井大将のお心です」と言い、ウォーカーの慰霊碑を菩薩像のそばに建立し、法要を営んだ。


◆ ◆ ◆


先の記事『石原慎太郎の忘れ得ぬ屈辱 東條英機は「日本のヒトラー」だったのか? 残された遺族たちは…』でも書きましたが、本当に知れば知るほどアメリカや中国やソ連への怒りは募るばかりです。

愚かしくも第二次世界大戦(大東亜戦争)での戦勝国・アメリカが自らのアジアの利権を欲したが為に日本を悪者に仕立て上げ日本を侵略した戦争の被害の記録です。

東京裁判でインド代表として判事を務めたラダ・ビノード・パールさんの言葉が胸を詰まらせます。

『  パールは裁判で被告人全員の無罪を主張した。法廷に提出した1200ページ超の意見書では、勝者が敗者を裁くこと自体を批判。「日本は計画に基づき侵略戦 争を始めたのではなく、むしろ西洋に挑発された」「一般市民への生命財産の侵害が戦争犯罪ならば、原爆投下こそが裁かれねばならない」などと主張した。』

本当に記事の通りだと思います。大東亜戦争など本当に馬鹿な戦争に踏み切ったのだと後悔しても仕切れません。
何故戦争などしたのだと思います。戦争など絶対にしてはいけません。
しかし、この戦勝国が自国の戦争を正当化する為にご都合の為に行った東京裁判など本当に許せません。この事実を正しくのせいている教科書がどこにあるのでしょうか。

アメリカが自国のアジア利権の為に行った日本への戦争行為、そして原爆投下により民間人の大量虐殺に続いての占領こそ戦争犯罪でしょう。

いいかげん、日本はこの事実を正確に知っておく必要があるのでは無いでしょうか?


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出典:http://www.sankei.com/










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