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<戦後70年の真実>石原慎太郎の忘れ得ぬ屈辱 東條英機は「日本のヒトラー」だったのか? 残された遺族たちは…海外旅行自力旅 [海外情報・ニュース・世界情勢など]

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ウェッブ裁判長から死刑宣告を受けた東條英機。「わかっておる」と言わんばかりに深くうなずき、ヘッドホンを外して退廷した=昭和23年11月12日
出典:http://www.sankei.com/


 雨が降っていた。正確な日時は覚えていない。旧制湘南中学校の学生だった元東京都知事、石原慎太郎(83)は、隣に住む大学生に連れられて東京裁判(極東国際軍事裁判)の傍聴に行った。父、潔がどこからか傍聴券を手に入れてくれたからだった。







 法廷があったのは、大戦中は大本営陸軍部が置かれた東京・新宿区の陸軍士官学校(現市ケ谷記念館)。2階の傍聴席につながる大理石の階段を上がると踊り場で進駐軍の憲兵(MP)に肩をつかまれた。

 「キッド(小僧)!」

 大声で怒鳴られたが、何を言っているのか分からない。大学生が「『うるさいから下駄(げた)を脱げ』と言ってるぞ」と耳打ちした。

 仕方なしに下駄を脱ぐと、MPは下駄をけり払った。石原ははいつくばって下駄を拾い、胸に抱いて裸足でぬれた階段を上った。

 傍聴席から下を見下ろすと、被告席にA級戦犯として起訴された被告がずらりと並んでいた。元首相の東條英機の顔も見えた。

 英語なので何の審理をしているのか、さっぱり分からなかったが、戦勝国が「支配者」として一方的に敗戦国を裁こうとしていることだけは伝わった。あの屈辱感は今も忘れない。

   × × ×

 東京裁判の法廷は、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判の法廷を模して作られた。
 かつて天皇の玉座だった講堂の正面部分は無残に破壊されて通訳席となり、判事席と被告席が対面するよう配置された。

  昭和21年5月3日から23年11月12日まで続いた東京裁判は、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが、自らを「極東の統治者」として演出する ための政治ショーでもあった。被告席は傍聴席から見やすいよう配置され、被告の顔が記録フィルムにくっきり映るよう照明は増設された。

 20年8月30日、愛機バターン号で厚木飛行場に到着したマッカーサーは、その日のうちに米陸軍対敵諜報部隊長(准将)、エリオット・ソープにこう命じた。

 「戦争犯罪人の逮捕者リストを作れ。そしてまずトージョーを逮捕しろ」

 指令を受けたソープは当惑した。リストを作成しようにも戦争遂行に関与した人物どころか、日本政府の指導体制や大戦の経緯など基礎知識がほとんどなかったからだ。もちろん東條の自宅さえ知らなかった。

 作業が遅々として進まぬことにいらだったマッカーサーは9月8日にソープを呼び出し、怒鳴りつけた。

 「私の命令が10日間も実行されないのは前代未聞だ。48時間以内にリストを提出しろ!」

 追い詰められたソープはふと思いついた。

 「そうだ。マッカーサーはトージョーと言っているのだから、とりあえず真珠湾攻撃を仕掛けたトージョー内閣の閣僚を中心にリストを作ればよいのだ…」

 こうしてソープは翌9日に40人近いリストを作成した。日本軍に協力した元フィリピン大統領やビルマ独立義勇軍のアウン・サン少将まで含まれるずさん極まりないリストだったが、これを基に戦犯容疑者の一斉拘束が始まった。

 「居所が分からない」とされた東條は東京・世田谷の自宅にいた。AP通信記者からこの情報を聞いた連合国軍総司令部(GHQ)は、9月11日にMPを拘束に向かわせたが、東條は直前に短銃自殺を図った。

 東條は何とか一命を取り留めたが、その後もGHQの失態は続き、キーマンとなる人物が相次いで自殺した。

 近衛文麿はその象徴だといえる。12年7月の日中戦争開戦時の首相で、16年の日米開戦直前まで首相を務めた近衛は、日本の戦争責任を追及する上で最重要人物だったが、どうやらGHQは気づいていなかった。

 その証拠に、近衛は終戦後の東久邇宮内閣に国務大臣として入閣し、20年10月4日にはマッカーサーが直接会って憲法改正を指示している。この時点では、GHQは従順な近衛に占領政策の一翼を担わせる考えだったのだろう。

 近衛は戦犯リスト入りをひそかにおびえていたが、GHQが相次いで発表する追加リストにその名はなかった。11月9日には米戦略爆撃調査団から日中戦争の経緯などを3時間も追及されたが、19日発表のリストにも名前がなかった。

 そこで近衛はようやく安堵(あんど)したようだが、12月6日に突如としてリストに名を連ねた。近衛は出頭期限の16日、東京・荻窪の自宅で「戦争犯罪人として米国の法廷で裁判を受けることは耐え難い」と書き残して青酸カリで服毒自殺した。

 近衛のリスト掲載が遅れたのは、中国が南京の軍事法廷への引き渡しを要求したこともあるが、GHQが大戦の経緯を理解していなかったことが大きい。

 近衛の自殺により、「軍人だけでなく文官も戦争犯罪人として処罰する」というマッカーサーの構想はもろくも崩れ、戦争への関与が極めて薄い元首相、広田弘毅が代わりに処刑されることになった。

  ×  ×  ×

 東京裁判のずさんさは数え上げれば切りがない。検事団も判事団も戦勝国のみ。A級戦犯の「平和に対する罪」は戦後編み出された概念にすぎない。被告側の戦勝国に不都合な証言は通訳を停止し、記録に残さなかった。

 しかも被告の選定には、戦勝国の利害が露骨にからんだ。

 21年4月10日、GHQはA級戦犯26人を確定した。ところが、遅れて来日したソ連検事団が、日ソ間の協定で解決済みの張鼓峰事件(13年)とノモンハン事件(14年)を蒸し返し、元駐ソ大使の重光葵と元関東軍司令官の梅津美治郎の追加をねじ込んだ。

 重光が禁錮7年の刑となったことには首席検事のジョセフ・キーナンにも自責の念があったようだ。後に重光の弁護人に「重光が無罪になることを期待する十分な理由があり、有罪となって非常に困惑した」と手紙で吐露している。

   × × ×

 そんな戦勝国の一方的な裁判に正面から異を唱えたのが東條だった。

 キーナンによる東條への尋問は22年12月31日から23年1月6日まで続いた。

 キーナン「米国は日本に軍事的脅威を与えたのか?」

 東條「私はそう感じた。日本もそう感じた」

 東條はこう語り、米国にハル・ノートを突きつけられ日米開戦が避けられない状況だったことを縷々(るる)説明し、キーナンの「対米侵略戦争論」を跳ね返した。

  東條は尋問直前に提出した口述書でも「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反せぬ。(略)勝者より訴追せられ、敗戦国が国際法の違反者として糾弾される とは考えたこととてない」と主張。その上で「敗戦の責任は総理大臣たる私の責任である。この責任は衷心より進んで受諾する」と結んだ。

 自らも認めた通り、東條が大戦時の指導者として多くの兵や国民を死なせた責任は大きい。陸相時代の16年1月に「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の一節を含む戦陣訓を示したことを非難されても仕方がない。逮捕時に自殺を図ったことも不評を買った。

 東條の指導力や先見性にも疑問符がつくが、GHQが貼った「日本のヒトラー」というレッテルはあまりに酷だろう。少なくとも東條が昭和天皇を守る盾になる一心で東京裁判に臨んだことは論をまたない。







   × × ×

 「日本=侵略国、米国=正義」というGHQの世論操作もあり、東條の遺族に対する戦後日本社会の風当たりは凄まじかった。

  東條の長男、英隆は父親と反りが合わず軍人ではなかったが、戦後は就職できず、長く妻の内職で生計を立てた。その長男(東條の孫)の英勝は、小学校では誰 も担任を引き受けたがらず、友達もいない。よく登り棒の上から教室をのぞいて過ごした。自殺を図ったこともあったという。就職にも苦労したが、「一切語る なかれ」という家訓を死ぬまで守り続けた。

 東條の曽孫、英利(43)も幼い頃から大人の冷たい視線を感じて育った。小学校の担任教諭は何かにつけて「東條英機の曽孫の…」と接頭語をつけた。

 小学4年の時、母親に連れられてドキュメンタリー映画「東京裁判」を見に行った。被告席で東條が国家主義者の大川周明に頭をポカリと殴られたシーンを見ていると、母から「あれがひいおじいちゃまよ」と耳打ちされた。

 同じ年に東條英機の妻、かつ子が99歳で死去。玄関に飾られた曽祖父の軍服姿の写真を見て、何となく自分の家族の置かれた状況が分かるようになった。高校では、社会科で世界史を選択した。授業中に教諭に東條英機の話を振られるのが嫌だったからだ。

 「私も多少不快な思いをしたけれど父の代に比べればかわいいものです。父に『これだけは誇りを持て』と言われたのが、GHQがいろいろと探したのに不法な金品財宝が一切なかったこと。おかげで貧乏暮らしでしたが、今は曽祖父に感謝しています」

 こう語る英利は、自分の息子の名にも「英」をつけた。重い歴史を背負う東條家の意地だといえる。



◆ ◆ ◆


米国がアジア大陸を詐取する為にどうしても日本を悪者にする必要があった第二次世界大戦。

その為、日本を追い詰め米国はありとあらゆる方法で日本を戦争に踏み切らざるを得ないように罠をかけたこの事実は消えません。何よりも日本が米国の侵略に怯えて戦争に踏み切ったのです。
それを日本を占領して日本人に米国正義を植えつけた事実をこの記事は伝えています。

戦争に踏み切り、西のドイツとアジアの日本と言う日本を戦争犯罪者にしたて同時に罰する演出が米国には必要だったのです。その為に、国際戦争法に禁止されている『民間人の大量虐殺』を行ったという事実も日本を悪者に仕立てなければ自分達の立場が危ういと考えての東京裁判です。

敢えて言わせて貰えばこんなもの裁判とは名ばかりの『政治ショー』です。

アメリカの傲慢な戦争犯罪が第二次世界大戦へのアメリカの真実です。

この事実の歴史を日本人はいい加減きちんと学校で習う権利があります。

中国・ロシア(ソ連)などが戦勝国と名乗ってるのは、ただの戦争犯罪の結果でしかない事を、日本人は知っておく人用が有ると思います。
過ぎた事は仕方ないですが、日本は今後同じ轍は踏んではいけないと言う事だと思います。
これが、捏造国家・中国が今も日本を悪者にしたてあげて隙あらば日本に軍事行動を起こそうと常に挑発し続ける理由です。

その為、外交が大事だと言う事なのです。そしてその現実を伝える教育も。

いつ中国やロシアがアメリカや西欧などに嘘を再び吹き込み、日本へ軍事行動を起こすかも知れない現状を日本人はきちんと知っておかなければいけないと思います。

Wikipediaにもこう有りました。

外国からの好意的な評価

バー・モウの評
ビルマ国(戦後成立したビルマ連邦とは異なる)首相バー・モウは自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。

レーリンクの評
東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンクは著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です」と東京裁判のあり様を批判している。


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出典:http://www.sankei.com/










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