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日本は中国とは違う、西欧に一目置かせた伊能忠敬-海外旅行自力旅 [海外情報・ニュース・世界情勢など]

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出典:http://news.yahoo.co.jp/



 20世紀の日本は、非常に高い成果を上げる人材を多数輩出してきました。いま日本人がノーベル賞を筆頭に、内外で高い評価を受けるのは、そうした過去に育てた人材による業績に対してであることを忘れてはいけません。
 翻って若い人材はどうか、と考えると、STAP細胞詐欺を筆頭に、多数の「コピペ博士論文」が疑われたり、「ゆとり」世代の基礎学力不足が指摘されたり、と必ずしも目先の明るい話ばかりではありません。

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(Wikipediaより)







 この先、本当に創造的な人材を輩出し続けていくなら、21世紀、22世紀の日本の基礎科学、本質的な学術の未来は明るいものになるでしょう。 また、過去の遺産を食い潰すような教育、研究の指導行政に陥ってしまうなら、未来は暗いものになると言わざるを得ません。

 では、本当に創造的な人材を育てるとは、いかなる教育であるか――。 伊能忠敬から榎本武揚、そして明治の「カウンターマジョリティ」へとつながる「日本を支えた知の系譜」の成功と失敗を検討して、明るい未来を目指す具体的な形、「ファクト」に基づく人材育成を考えてみたいと思います。

■ 典型的後進国型教育とは何か?

 ここではまず反面教師から見ておきましょう。

 世の中には、典型的な「後進国型の教育」というものがあります。後進国とは、すでに先進国がある状況で「追いつけ、追い越せ」とシャカリキになっている国であり、そこでの研究教育の指導体制と考えることにしましょう。 特徴は、精神的な余裕がないこと、そして膨大な量の知識を表層的に問う、ペーパーテストのがり勉を強要することにあります。管理教育と言ってもいいでしょう。 何の必然性があるのか、よく分からない、断片的な情報を膨大に紙の上の知識として詰め込み、その合否だけを浅く問う詰め込み教育。

 中国、韓国に限らず、途上国で「エリート選抜」と言うと、この種のペーパーテストと、それによる選別で社会的な地位や収入などが分かれてしまう学歴社会。 家族総出で子供のテストのカンニングを支援するような事態がいくつかの発展途上国で見られ、そうした報道を目にすることがありますが、この種の情けない事態が笑えないのは、子供の「その先の人生」が、そんな程度のことで左右されてしまうからにほかなりません。

 つまり、社会体制として拙劣なのです。

こういう制度で育てられ、浅い紙の上の知識でその場を誤魔化しただけなのに「人生の成功体験」と勘違いした人は、生涯の不幸を背負いかねません。

 と言うのは、断片的ペーパーテスト主体の教育で育った人には、応用力が欠ける場合が多いからです。

 一問一答で、すでに正解があるような質問には、とくとくとして答えます。この種の「人材」は「物知り」ではある。

 しかし、ほんのちょっとでも状況が変わると、こういう教育では応用が利かない人が少なくない。端的に言えば、過去問が存在しないと答えが出せない。「チャート式」で正解をあらかじめ教えてもらっていないと、何も答えが導けない。

 前例がないと判断業務を遂行できない。先例があればそれをなぞることでどうにか仕事を回していく・・・。

 こんなふうに書くと、だんだん実態が分かってくるかと思います。これは単に歴史の現実に過ぎませんが「典型的な後進国的教育」を率先して進めていたのは、実は明治以降の日本が筆頭といって過言ではないのです。

 「富国強兵」「殖産興業」――。近代日本が掲げたスローガンと、その元で薩長閥政府が推進した教育制度は、典型的な「ダメ人材育成」の制度でした。

 中国、韓国をはじめとする東アジア諸国は、何だかんだと言いながら日本を徹底して模倣します。例えば韓国の半導体産業にどのようなオリジナリティがあるか、どれくらい日本から丸々コピーしているか、といったことを考えてみると、実態は明らかと思います。

 日本のある種の人々が振り回す「ヘイト」中韓への嫌悪には、近親憎悪の面があるように思われてなりません。

 「元祖詰め込み教育」は日本にその根の1つがあります。そしてこの拙劣な教育は日本でも多大な負の遺産を作って来ました。

 「ゆとり教育」にしても、元来はそこからの脱却、つまり余裕のない浅い紙一枚のがり勉を克服するために有馬朗人、寺脇研といった人々が導入したもので、その志は元来大変立派なものだったのです。

 その結果がどうであったかは全く別ですが、本来の動機として教育を良くしようとして導入された改革であったことは間違いありません。

■ 「国策」から「天の理法」へ、伊能忠敬はなぜ測量したか? 

 明治新政府がそうそうに「学制」を導入したのは賢明な施策だったと思います。すべての国民に等しく教育を施す、例えば文字の読めない人をなくし、民度の高い社会を作り出す基盤が整えられたのは、日本にとって幸運なことでありました。

 しかし、たび重なる明治初期の政変で多くの有為の人材は政府を去り、民間で反骨の志を貫いて大きな成果を得ています。少し前に記した北里柴三郎は典型的でしょう。

 すでに熊本での少年時代、オランダの恩師から、世界トップ水準の教育を施された北里は「日本の夜明けは近いぞ!」と鞍馬天狗のおじちゃんに教えられた杉 作少年(大仏次郎が幕末の志士活躍を描いた小説「鞍馬天狗」の描写ですが)のようなもので、本物の高い志を持った例外的存在、マイノリティだったわけで す。

 幕末期に西欧に送られ、最新学術を学んだ西周、中村正直、榎本武揚といった人材は、明治以降の政府で決してマジョリティではなかった。

 榎本武揚(1836-1908)のケースは典型的でした。彼の父、箱田良助(1790-1860)は備後の国の庄屋の次男で、武士ではありません。

 千葉の九十九里で名主・造酒屋の家に生まれた伊能忠敬(1745-1818)のアシスタントとして、西欧由来の進んだ測量で日本地図を完成したのが箱田良助で、榎本はその息子にほかなりません。

 伊能もまた、武士ではありませんでした。今の千葉と茨城の県境、下総国佐原の造酒屋に婿養子で迎えられ、前半生はビジネスで成功した人物です。

 当時の佐原は天領、つまり幕府直轄地で、水郷の商都で、武士はほとんどおらず、町人が合議して自治的に共同体を運営していた。その佐原で名主として40代までを過ごした伊能は、50歳にして江戸に出「隠居仕事」として天体観測と暦を学び始めます。

 が、ここで注意しておくべき要点があるのです。伊能は紙の上の勉学だけでなく、毎日精密な天体観測を徹底して行ったという事実です。

 18世紀末、江戸にはすでにティコ・ブラーヘとヨハネス・ケプラーの精密な天体観測がもたらされていました。

 50歳を過ぎた伊能は、紛うことなくグローバルに先端的の精密科学に「隠居仕事」一切の営利と無関係なライフワークとして取り組みます。

 江戸幕府の封建制が十分腐敗していた時代、そうした雑事を離れ、まさに「天の理法」に基づく宇宙の正しい秩序を「観測」、ファクトに基づいて知りたいと思った・・・ここに彼の「動機」が周囲の凡俗と隔絶していたポイントがあります。
 伊能と、19歳年下ながら彼の師であった幕府天文方の高橋至時(1764-1804)は、正確な暦を作成するうえで地球の子午線の長さを正しく知りたいと思っていました。純粋に科学的な興味であり動機です。

 彼らは地球が球体であることを知っていました。球体なのに人も水も「下」に落ちては行かない(実は中心に向かって落ち続けているわけですが)なんて不思議なことでしょう。

 幕末の科学者たちは純然たる世界の不思議に胸を躍らせました。50を過ぎて私財を投じ永遠の理法に夢を持つ伊能、そんな「弟子」を持って宇宙の不思議に純粋な疑問を持つ高橋至時。

 「地球というのは、本当はどれくらいの大きさを持つのだろう?」

 それを知りたい、という動機を持った彼らに「蝦夷地にロシア人出没」という報が寄せられます。ロマノフ朝ロシア帝国の特使ラクスマンが根室に来航し、通商を求めてきたというニュースです。

 鎖国体制とはいえ、幕府は喫緊の事態に対策を立てねばならなくなりました。通商であれ海防であれ、はたまた軍事であれ、基本となるのは「地図」です。可能な限り正確な蝦夷地測量の必要性が生じました。

 「これを利用しない手はない」と考えたのが高橋と伊能だったわけです。彼らは必ずしも測量だけがしたかったわけではない。蝦夷地と江戸という長い基線距離があれば、天体観測を通じて地球の大きさを知ることができます。

 「子午線1度の距離を測りたい」というのが彼らの本当の願いでした。

 子午線、つまり赤道と同じく地球全体の半径による「天体の大円」の大きさが分かれば、その表面の1点に過ぎない江戸や長崎、蝦夷地などでの天体観測結果から、さらに精緻な暦を得ることができます。

 従来の経験的な数値はどれも信用するに値せず、高橋も伊能もこれが不満でした。

 地球というものの果てしない全体像を知りたい・・・この、営利も政治もへったくれも関係のない純粋な情熱を胸に秘めながら、「ロシア船来航」という現実への対応策として、高橋は幕府に「蝦夷地測量」の計画を提出したのです。

 やや難航したものの、許可が下り、伊能たちは北海道に向かうことができました。若い時から数術が好きだった伊能忠敬は、このときすでに55歳になっていました。







■ ダブルスタンダードが生んだ豊かな成果

 55歳の伊能たち一行は、昼は測量をしながら海岸沿いを進み、夜は天体観測するという旅を続けます。幕府が求めるのはあくまで「地図」という紙一枚のことですが、伊能にとってこの「地図」は平面ではありませんでした。

 あくまで地球という不思議な球体の直径を知りたいという「別の目的」、宇宙への夢が彼に年齢を忘れさせたのだと思います。

 役人は平面で地図ができればよいと思っていた。伊能たちとは、最初から次元が違っていた。

 ローカルな2次元思考の幕府を超えて、科学者たちは球面としての地球を考え、大宇宙を航行する天体の運動を、できるだけ離れた距離から正確に観測したいという「本当の動機」を持って、異常なほどの正確さをもって北海道を測量したわけです。

 道路などおよそ整備されていない18世紀の蝦夷地のことです、歩けない海岸線は迂回せざるを得ませんでした。

 大変な行程ながら、120日ほどで第1次測量はひとまず終了、全行程も半年程度で、江戸に戻って20日ほどの集中した作業で伊能版の蝦夷地詳細地図が作成されました。

 この功績が認められて伊能は苗字帯刀を許されています。武士の形になりますが、およそ幕藩体制の閉鎖的な思考とは無縁の新人類が、50代の青春を迎えていたわけです。

 この蝦夷地測量で作成された地図は詳細を極め、平面思考とはいえ幕閣は驚嘆、海防の必要からさらなる測量の打診が高橋と伊能に寄せられます。

 伊能たちはすでに思考がグローバルになっており、前回歩けなかった海岸線も踏破できる測量船を仕立てての精密測定を計画しますが、平面思考の幕府には通 じません。この計画は後に間宮林蔵によって実現されますが、間宮は伊能の弟子たちと政治的に鋭く対立し、のちの「シーボルト事件」が引き起こされてしまい ます。

 逆に本土の精密測定なら脈がある。ならば、ということで、そうした政治の圧力も追い風に、伊能たちは三浦半島、房総半島、伊豆など江戸近郊の精密な地図を作成します。

 そしてその間、毎晩毎晩、日本全国の至る所で伊能は天体観測を続けました。

 高橋は幕府の「天文方」であり、測量に必要ということで、必ずしも面従背反ということではないにせよ、伊能測量隊は各地での天体観測に「本当の情熱」を燃やし続けます。
 その結果「子午線1度」の値が「北海道ルート」のみならず「下田ルート」などからも求められ、値の比較が可能になりました。実にまともなサイエンティストの思考です。

 高橋はオランダ由来の資料に記された値と自分たちの得た複数のデータを比較、それらの一致を見て大いに喜んだと伝えられます。

 が、そんな高橋至時は1804年40歳の若さで急逝、この年の秋、伊能版の東日本地図が完成し将軍家斉に報告、西日本の地図も作成せよ、ということになり、結局11年の歳月をかけて測量が行われました。

 これらのデータをつなぎ合わせて1枚の地図を作るには、曲面を平面に投影する技術が必要ですが、伊能はメルカトル図法などの技法に通じていませんでした。70を過ぎてもこうした新たな数術に情熱を燃やした伊能でしたが、結局1818年、73歳でこの世を去ります。

 が、政治状況を考慮して伊能の死は伏せられ、3年後の1821年「大日本沿海輿地全図」(伊能図)と名づけられた「国家機密」の地図が完成します。

 これをまとめ上げ、高橋至時の遺児、景保をサポートしたのが現在の広島、福山出身の箱田良助ら伊能の弟子たちで、箱田は4年後に幕臣榎本家の株を購入、旗本として幕府勘定方を務めます。箱田は結局、幕末開国後の1860年、71歳で亡くなりました。

 この箱田良助=榎本武規が46歳になって設けた「遅い子」が釜次郎こと榎本武楊で、父の没後、ちょうど「桜田門外の変」の直後の時期、米国留学が決定します。

 しかし、米国では南北戦争が激化の最中であったことからオランダ留学に切り替えられ、ハーグで化学や国際法などを学ぶことになるわけです。

■ 世界が日本を高く評価した理由:シーボルト事件から日英同盟まで

 伊能の没後に完成した日本地図は日本の歴史を大きく動かしていきます。国家の最高機密であったこの図のコピーが、完成からたった7年後の1828年、オランダ商館の医師であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの荷物の中から見つかったのです。

 高橋至時の遺児、幕府天文方の高橋景保(1785-1829)がこれを渡したものとされ、景保は捕らえられて獄死、背景には間宮林蔵との政治的確執などがあったとも伝えられます。シーボルトも国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。

 が、何だかんだ言いながら、優れた情報はコピーされ、外に出て行くものと相場が決まっているようです。伊能図は1830年頃には欧州にもたらされ、その精度の高さは驚嘆をもって評価されます。

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大図 渥美半島付近(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)
(Wikipediaより)


 とりわけ伊能図を評価したのは英国海軍だったと伝えられます。世界帝国の覇権政策の中、日本の科学技術は決して侮ることができない、という政策上の大きな判断が下されるに当たって、伊能図の持つグローバル最先端の技術水準は決定的な役割を演じました。
 でも伊能自身にとっては、それは仕事の副産物に過ぎなかった。本当に彼を突き動かしたのは「地球って本当はどんな大きさなのだろう?」「ケプラー法による天体観測の真の精度を極めたい」という純粋な情熱だった。

 その品位を「貴族の遊び」としてサイエンスを推進していた19世紀英国の知性は鋭く察知したのかもしれません。

 「この相手は侮ると大変なことになるかもしれない」

 英国は一方で1840年以降、アヘン戦争~アロー号事件~アロー戦争と、清朝と戦い、これを勢力化に置いていきます。

 一方、日本に対しては1853年、米国大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーが来航、不平等条約が押し付けられはしますが、対中国のケースのような露骨な「植民地支配」という魔手はついぞ伸びることがなかった。

 なぜなのでしょう? 

 19世紀最末年に至って、日本は欧州の代わりに清朝と戦ってこれを破るといった役回りを演じることとなり、日清戦争終結後、賠償金で八幡製鉄所を作り京都大学を作り。20世紀に入ると英国は数百年に及ぶ「光栄ある孤立」政策を放棄、日英同盟を結んで世界を驚かせます。

 どうして極東のハラキリ部族と同盟など結ぶのか? 

 その背景にあるのは、決して幕閣の鎖国政策でもなければ、内乱を制した明治新政府の薩長閥の政策への評価などでもない。

 伊能図が端的に示す、日本の知がグローバルに見て最先端を牽引するに足る可能性、ポテンシャルを持っていることが、非常に大きな意味を持ったのではないか? 

 実は私自身も英国国教会信徒の家に生まれて4代目にあたり、関連の話題で英国の大学と相談を始めたプロジェクトなどもあるのですが、伊能図が典型的に示 すように18世紀の時点で日本はすでに、世界最先端をリードする科学の芽を十分育んでおり、それが適切に国際社会に共有されたことで、国を救った面が多々 あると思うのです。
 果たして清朝時代の中国に「伊能図」があったか? 

 李氏朝鮮時代の韓国・北朝鮮に関孝和の和算はあったか? 

 関はニュートンやライプニッツより早く、全く独立に日本で微分法を編み出した数学者で「微分」という言葉も関の「発微算法」に由来するものと思われます。

 こういった国情に国際法のオランダ、世界帝国の英国が通じており、日本は決して侮ることができない最先端の科学技術国たり得る存在と牽制されたことが、20世紀以降の日本の圧倒的な発展を準備する、大きな背景になっていたのではないか? 

 実は歴史を詳細に紐解けば、中国にも韓国にも伊能や関に当たる人物がいたのかもしれません。

 でも不幸にしてそういう人たちの仕事は世界に共有されず、アロー戦争以降の中国はますます帝国主義列強の草刈場となり、19世紀後半の李氏朝鮮の国情も末期的で、結局清朝の崩壊と前後して日本の併合という憂き目に遭うことになってしまいます。

 伊能も関孝和も、また明治以降の榎本も北里も、紀州藩の儒者の家に生まれた湯川秀樹博士にしても、およそ日本の政治的マジョリティではなかった。

 封建制度の中で体制内の「勝ち組」として胡坐をかいた集団ではなく、地球の本当の大きさと宇宙の構造に夢をもって何千万歩という距離を「歩いて」測量し、天体観測し、そうやって得られた「ファクト」に基づいて人類史の知見を前に進めてきたマイノリティ。

 少数の例外で、これら「カウンター・マジョリティ」が世界で最高の評価を受けることで、ここ200年来の日本が人後に落ちない国として、世界から一目置かれる存在であることを、許されてきたのではないか? 

 ですから、そういう「本物」ファクトに基づいて世界をリードする、少数かもしれないけれど明らかにグローバルなイニシアティブを取れる「カウンター・マジョリティ」の人材を育て続ける「本物教育」の灯を絶えさせないことが、何より重要だと思うのです。


■ ■ ■

このような先人達、伊能忠敬や関孝和などの素晴らしい精神は確実に現代の日本人にも確実に受け継がれていると思います。

その為、本当に第二次世界大戦に踏み切った日本の決断が悔やまれます。あの戦争を進めなければ、日本はこのような不遇の扱いを受けるべき国家ではない事は明白です。
何故、あの場所で踏みとどまれなかったのか。何故、あの罠を見切れなかったのか?

悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。

歴史を知れば知るほど中国や韓国の卑劣な民族性を知る事になります。
あのような国に言いたい放題言われるなんて日本人としてガッカリしてしまいます。

しかし、もう同じ卑劣な罠に屈しないよう私達は心して掛からなければいけないと思います。

今度は罠を回避してあの国たちを黙らせましょう。それが日本の誇りある真の姿だと思います。

そろそろ日本の誇りを歴史からもこれからも取り戻そうと思いませんか。日本人は素晴らしいのですよ。本当に。知らないのは現代人ばかりです。



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関 孝和(せき たかかず)
(Wikipediaより)










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